自分のアイデアを、動くものにしたかった
高校時代、ゲームを遊びながら「自分ならこうするのに」と考えることが増えました。
前回の記事の最後に書いたその気持ちから、私はゲーム制作を学べる専門学校へ進みました。
学校の勉強は好きではなく、大学へ行きたい気持ちもあまりありませんでした。
かといって、高校を卒業してすぐに就職するのも、まだ早い気がしていました。
そんな頃にテレビCMなどで専門学校を知り、
ここへ行けばゲーム会社へ入れるのではないかと思ったのです。
当時やりたかったのは、自分でゲームのアイデアを考え、自分の手で動くものを作ることです。
企画をするか、プログラマーになるかという二択ではなく、
今振り返ると、その両方をやりたかったのだと思います。
京都から大阪の、設備だらけの校舎へ
専門学校へは、京都から大阪まで通うことになりました。
高校時代より朝は1時間半ほど早くなり、単純に「遠いな」と感じていました。
校舎には、入学前にもテストや面接、入学式などで行っています。
高校とは規模がまったく違い、設備にもかなりお金がかかっていそうな、豪華な学校でした。
毎日ここで学べるのは楽しそうで、期待していました。
校舎は10階建てで、最上階には数百人が入れる大きなホールがありました。
学年の半分ほどが集まる授業や、学長の話を聞くときなどに使っていました。
その横のビデオ視聴設備も変わっていて、
タイムカプセルかコクピットのような形の席がいくつも並んでいました。
それぞれにテレビモニターがあり、2人ほどずつ座って先生の流す映像を見る設備です。
中層階には、ガラス張りの長いマシンルームがありました。
1フロアの半分ほどを使った部屋に、PC-9801がずらっと並んでいます。
正確な台数は覚えていませんが、100〜200台ほどあった印象です。
別の階にはデザイン系の学生向けにMacもまとまった台数が置かれていました。
PC-98はクラス全員で授業に使うだけでなく、授業のない時間や放課後にも使えました。
学生ごとのバーコードを読み込ませて、利用予約をする仕組みになっていました。

学生の間で「ロデムルーム」と呼ばれていた部屋もあります。
部屋の前に『バビル2世』のロデムを思わせる置物があったので、そう呼んでいました。
そこには、台数こそ少ないものの、ファミコンの開発機がありました。
すでにPlayStationが登場していた頃で、古い世代の開発機も学校には残っていました。
設備だけでなく、集まっている人の幅も高校までとは違いました。
高校では京都市内の一部から集まっていた感覚でしたが、
専門学校には広島や沖縄など、遠くから来ている学生もいました。
髪を染めた人やパンク系の服装の人など、見た目もさまざまです。
高校までとは、ずいぶん違う環境に来た気がしました。
仲良くなったのは、やはり同じようにゲームが好きな人たちでした。
地元も育ってきた環境も違う人たちと友人になりました。
コンピュータも、デザインも面白かった
自宅でPC-98を使っていたので、パソコンに触ること自体は初めてではありません。
けれど「プログラム」という言葉を知っていても、
実際に何をすることなのかは、まだ分かっていませんでした。
早くそれを知りたいと思っていました。
入学して最初の頃は、コンピュータリテラシーやデザインなど、幅広い基礎の授業がありました。
コンピュータリテラシーでは、コンピュータの5大装置や、
どのような仕組みで動いているのかを学びました。
高校までの普通科目と違い、興味のあるコンピュータそのものを教わるのが楽しかったです。
デザインの授業では、パースを使って、黒いペンだけで空間をデザインするような課題がありました。
子どもの頃には漫画家になりたいと思った時期もあり、絵を描くことにはもともと興味がありました。
そのため、デザインもコンピュータの授業と同じくらい好きでした。
苦手だったものを挙げるなら、サウンドと3Dです。
楽器に触れた経験は小中学校の音楽の授業くらいで、
オリジナルの曲を作ると言われても、何を作ればいいのか分かりませんでした。
ゲーム音楽を聴くのは好きでも、自分に曲を作る才能があるとは思えませんでした。
それでも、DTMの考え方や、音をデータとして扱う仕組みは分かるようになりました。
3Dでは、サイン、コサイン、タンジェントや行列計算が出てきます。
中学高校で苦手だった数学がここでも出てきたのは、つらかったです。
それでも自分なりに勉強して取り組み、後に成果を出すときには役立ちました。
1年目の担任「小鬼」
1年目の担任は、学生の間で「小鬼」と呼ばれていた先生でした。
背は高くないものの、とても怖い先生です。
その一方で、コンピュータに詳しく、教え方も分かりやすくて、
今でも1年目の担任がこの先生でよかったと思っています。
先生は、一つの正解だけを探すのではなく、常識に囚われないことが大事だと、よく話していました。
その話で覚えているのが、大人数で受けた講義での問いです。
現実の避難方法を教える授業ではなく、発想について考えさせるための話でした。
建物の下の階が火事になり、階段で下へ逃げられない。どうするか。
先生は学生を一人ずつ指名して、答えさせていきました。
私の番までには、すでにいろいろな答えが出ていました。
私は「エレベーターで逃げる」と答えました。
別の学生が「夢だと思う」と答えたのも覚えています。おかしくて笑ってしまいました。
一通り答えが出た後、先生は、エレベーターという答えが出るまでにも時間がかかったことを挙げ、
まだ常識に囚われているという趣旨の話をしました。
ゲームのように人を楽しませるものを作るのに、常識だけに縛られていていいのか。
私には、そう考えさせる授業として記憶に残っています。
最初のプログラムは、文字列を逆にする課題
私が最初にプログラムを書いたのは、CASLでした。
課題は「入力した文字列を逆順に入れ替えて出力する」というものです。
100ステップ以内で書く、という条件がありました。
私は確か、70ステップくらいで作りました。
ところが、もっと少ないステップ数で完成させた学生もいました。
同じ文字列を逆にして出すだけなのに、人によって書き方も長さも違うのです。
プログラムには、正解が一つしかないわけではない。
最初の課題で、それを実感しました。
先生が話していた、一つの正解だけを探さないということも、自然にその体験とつながりました。
C言語で、プログラムを作ることが楽しくなった
C言語も学びましたが、思っていたよりすんなり理解できました。
特にポインタは苦戦する学生が多かったものの、
私には「なぜ分からないのだろう」と思うくらい自然に分かりました。
C言語の筆記試験では、満点を取った記憶があります。
それまでは学校の勉強が嫌いで、自分は勉強が苦手なのだと思っていました。
でも、興味のあることなら、こんなふうに理解できるのだと分かってきました。
1年目には、コマンドライン上で表計算ソフトのような画面を作る課題もありました。
私は色を多く使って、画面の見た目を工夫しました。
プログラムの方も、変数やループを使って同じ処理を何度も書かずに済むようにし、
なるべく簡潔にまとめることを意識していました。

その課題を、担任の先生が授業中に私の名前を出して褒めてくれました。
これは、とても嬉しかったです。
学校に入る前は、ゲームを作りたいという気持ちが中心でした。
この頃には、プログラムを作ることそのものも楽しくなっていました。
夏休みが、早く終わってほしかった
高校までは、課題をきちんと提出しないこともありました。
それが専門学校では、ちゃんと提出するようになりました。
夏休みには、早く休みが終わればいいのにと思うほどでした。
学校から出された課題だけでは時間が余り、長い休みは退屈でした。
授業が楽しかったし、学校へ行けば友人にも会えます。
京都から大阪まで通っていたので、休みの日に気軽に会える距離でもありませんでした。
定期券で行くことはできても、相手も休みの日には休みたいはずです。
もっと新しいことを知りたい、という気持ちもありました。
当時の私には、今のようにインターネットで次々と情報を探せる環境はなく、
専門書も学生にはそれなりに高価でした。
先生に新しい知識を教えてもらえることや、
先生自身が経験してきた仕事の話を聞けることも、学校へ行きたい理由でした。
朝は早いし、大阪までは遠い。
それでも、学校へ行って授業を受けるのが楽しみでした。
この後は、覚えたプログラミングを使って、実際にゲームを作ることになります。
その頃のことは、次の記事で振り返りたいと思います。